はるちん

死ぬまでの暇つぶし。良い日の備忘録。twitter_@chuck_abril17

結婚式のスピーチの楽しみ方『SHERLOCK/シャーロック』

ポリアモリーを自称しているせいなのか、アンチ・法律婚だと思われることが多い。
それは完全に誤解だ、という話をすると長くなるし混線するので、今回はそれに対する反駁の一端だけ吐き出しておく。

結婚式のスピーチとパートナーシップの素晴らしさについて。

 

 

ここ数日、遅ればせながら『SHERLOCK/シャーロック』シリーズにハマって、人生の重要なことはすべてシャーロックに結びつけて語る迷惑な20代女になり下がっている。

 

SHERLOCK/シャーロック』はBBC製作・Netflixで配信中の人気海外ドラマシリーズ。言わずと知れた19世紀の推理小説の金字塔、アーサー・コナン・ドイルの小説『シャーロック・ホームズ』シリーズの舞台を21世紀のイギリスに置き換え、自称「コンサルタント探偵」であるシャーロック・ホームズスマートフォンやインターネットといった最新機器を駆使して事件を解決する様を描いている。現在、シーズン4まで放送されているが、わたしが出色だと思うのは、シーズン3だ。

 

シーズン1・2で淡々と堅実に展開されてきたハイレベルなエンターテイメントはシーズン3で人間ドラマとして大きく躍進する。

 

「ジョン、僕は馬鹿げた男だ。君の温かくて一途な友情によってのみ赦されている。」


シーズン3第2話、自他共に認める高機能社会病質者(High-functioning Sociopath)のシャーロック・ホームズは、彼の行動を記録するブロガー(元軍医)のジョン・ワトソンから結婚式にあたってbest man=新郎付き添い役を依頼される。このことは彼の台詞にもあるように彼の人生において「ありえない」出来事だった。

 

シャーロックはシーズン1・2を通して圧倒的な権力を持ってきた。彼は物語を推進する超越的な頭脳の持ち主であり、また、ドラマの非日常性を象徴していたからである。その非日常性のためにジョンが救われることはシーズン1の第1話ですでに描かれていた。

 

一方、シャーロックにとってのジョンとは?
シャーロックはまず自分のことを結婚式のスピーチの中でこう描写する。

 

「僕は善を見下し切り捨てるし、美に気づくことはできないし、幸せを前にしてもそれが理解できない。」


シーズン1ではただただ自身の頭脳の活躍の場とスリルを求めるだけだった彼は、シーズン2において鏡像関係にある宿敵ジム・モリアーティとの対決を経ることで己を知ったのかもしれない。客観的にしか描かれてこなかったシャーロックのキャラクターは、シーズン3では第1話から度々彼自身の口で語られるようになっていき、このスピーチで決定的なものになる。 

 

「ジョン、僕は馬鹿げた男だ。君の温かくて一途な友情によってのみ僕は赦されている。」


己を知ったシャーロックは、式の最中、切磋琢磨し続けてきた兄マイクロフトとの小さな対決も済ませている。第1話で帽子の推理ゲームから証明したように、マイクロフトとシャーロックとの違いは「孤独」を知っているか否かなのだ。シャーロックにはジョンがいる。だから、裏返しとして、ジョンがいない寂しさも知っている。そのことを高らかに宣言して、シャーロックは誓いを立てる。

 

「メアリ(新婦)も同じことを言うと思うけれども、僕たちは決して君をがっかりさせたりしない。これから一生をかけてそれを証明していく。」


ジョンだけではない。ジョンを中心としてメアリとも絆を紡いだ(そのことをメアリが完璧に理解してマネジメントしているのも素晴らしい。)。この誓いが後に彼を苦しませることになるのは後の話だが、いつだってその高い洞察力とデリカシーのなさのために人間関係の破綻を招いてきた彼が、初めて人の心を一つにした、クリエイティブを発揮した瞬間である。

 

 

誰だって、欠落を抱えて生きている。自分は何者なのか、何が美点なのか、他者との「コントラスト(対比)」からしアイデンティティは築けない。シャーロックは美と善を解するジョンによって初めてその存在を見出され、肯定された。ただ、ジョンは単なる”へんないきもの”としてシャーロックを発見したわけではない。シーズン1・2のエンターテイメントの優等生的な冒険を積み重ねたから、手段ではなく目的として彼を愛したのだ。

結婚式のスピーチは、だから、たとえそこまでではない関係の友人だったとしても、確かに誰かにとっては人生の目的なのだと知ることのできる数少ない機会だ。それが永遠に続くかどうか、とかそういうことは実は問題ではない。

 

怒涛のジューンブライドを楽しもう。

 

 

 

 

まぁ、わたし、結婚式に出席したことないんだけど。

 

 

 

 

 

「他者 理解できない」 教えてグーグル

彼氏とよく喧嘩をする。

 

現代の日本では喧嘩というのは言葉で行われることが多い。というか、喧嘩は拳じゃなくて言葉でしましょうね、ということになっている。その方が安全だし。High&Lawの世界でサヴァイブできるツワモノはそう多くはない。

だけど、言葉で行われる喧嘩ほど不毛なものはない。言葉は世界を切り刻む。赤ちゃんにとっては単なる一体の障害物も、大人は言葉を知っているから、カオスな世界の中からこれは椅子、これは机、これはゴミ、ゴミはゴミ箱へ、というように意味のある物体を切り分けて認識することができる。言葉で語り合えば合うほど世界はバラバラになってお互いの違いばかりが際立っていく。暴力の方がよっぽど相手とつながれてしまうのかもしれない。たとえ理不尽なかたちであったとしても。

 

 

ベルーガ」という生き物がいる。

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ベルーガパフォーマンス 園内体験プログラム 水族館展示 | 鴨川シーワールド-東京・千葉の水族館テーマパーク

 

やっぱかわいいな〜。別名シロイルカ

イルカなので超音波を出して仲間とコミュニケーションを取ることができるらしい。群れごとに超音波の言語体系が違ったりするのだけど、たまに異なる言語体系を理解して翻訳するイルカもいるとか。賢いかよ。

 

彼氏と温泉旅行をしていつものように喧嘩してその帰り道、鴨川シーワールドに寄ったら、彼らが様々な芸を披露してくれた。水槽の向こう側から手を振ったり、空気の輪っかを作って飛ばしたり、目隠しをして超音波で金属とプラスチックの違いを見抜いたり。そのたびにダイバーのところに戻っていって、パカっと口を開ける。開けた口の中をダイバーがくすぐる。ベルーガは笑顔のようなものを顔に浮かべる。2人?は芸の成功ごとに客の目の前でイチャついていた。

 

日本語を喋るホモ・サピエンスと超音波で話すというベルーガ。両者の間にはコミュニケーションが成立しているといえるだろうか。よくわからない。でも、少なくとも日本語を喋るホモ・サピエンス同士のわたしたちは、房総半島の果ての方に来てまで喧嘩してなんかもうお互いのわかりあえなさにいつもながら呆然としてしまっている。同じ言葉を使っていても厳密に突き詰めていけば互いの世界の切り取り方はちょっとずつ違う。ヒートアップして言葉数が増えるほどに埋まらない溝はどんどん深くなる。ここも違う、あそこも違う、あーあ、わたしたちってばなにもわかりあってないね。人間とシロイルカですらあんなに仲睦まじく(みえる)時を過ごしているのになぁ。

 

それでもかろうじてお互いの手を握ってアクリルガラスの前で向こう側の人間とベルーガの平和的(に見える)やりとりを眺めるわたしたち。

 

「他者 理解できない」教えてグーグル。

 

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ベルーガはなんで人間の指示に従うことにしたんだろう。囚われているから?遊びが楽しいから?エサをもらえるから?もしかしてダイバーを愛しているから?わからない。永遠に謎だ。にこやかに見せながら、その実、水中のマイクの前で歌うという芸のとき、イルカ語で「ば〜〜〜〜〜〜〜〜か」と言っているのかもしれない。

 

わかる、と勝手に了解することは、それ自体、攻撃的な営みだ。カテゴライズして不安を取り除きたい、そんな一方的な欲望のために、他者を、ニュアンス丸ごと無視して自分だけの言葉の体系の中に無理矢理組み込んでしまうことは端的に人をモノとして扱う行為だし、人権侵害だ。言葉の土俵からさっさと降りて愛してるよと伝えられる人が最強。統合できる人がクリエイティブ。

 

そんなこと言ってわたしは元彼や一度好きになったけど破れた人については相手の主体性なんて捨象してしまって自分の人生の手段にするという整理の仕方しかできない。そうでもしないとやりきれないと思ってしまう。あの人と付き合ったから損とか得とかあるはずないのに。だから心の底から相手の幸福を祈ったことなんて一度もない。全員不幸になってほしい。名前をつけて保存して殴る。

 

理想の国は遠い。

 

 

 

 

 

ベールガ可愛すぎて鴨川からお持ち帰った。

 

ぬいぐるみ マシュマロマスコット ベルーガ 207-649

ぬいぐるみ マシュマロマスコット ベルーガ 207-649

 

 

 

私を不幸にできるのは宇宙であなただけ、ではない。

マツコデラックスさんが、以前テレビの中で、女の人は初体験とかどうでもいいし、昔セックスした相手なんて覚えちゃいない、というようなことを言っていた。

 

いやいや流石にそんなことなくないですか。そういうことをした相手自体忘れてしまうなんてことありえないでしょ。と20代前半までは思っていた。のだけれど、これが5年も経つと、あれ?あの人そのメンバーに入ってたっけ?ということがしばしば起こる。そういうことをむしろ友人やパートナーに指摘されることがある。いやおまえその人とあったじゃん。忘れたの?いやー…そう…だったっけー…言われてみれ…ば…(モゴモゴモゴ)

 

念の為断っておくと、わたしの経験人数が3桁とか何十人とかそういう意味で忘れているわけではない。お陰様で20代後半の女体が不自由しない程度の、少なくとも一般的に全員名前を空で言うのに苦労しないはずと思われる人としか関わりはない。

 

それでも忘れる。

 

存在することは記憶されることだから、忘れられるということはわたしにとってはその人の死を意味する。

 

悲しい。

 

でも、同時に、忘れることは快楽でもある。

 

 

先日、椎名林檎さんがデビュー20周年を記念して全楽曲をサブスクリプションサービスに解禁した。

 

もれなくわたしも無罪モラトリアムからアダムとイヴの林檎まで全アルバムダウンロードして聴きまくりブチ上がっているわけだけど、同じように聴き返しまくってはブチ上がっているという後輩の女の子が言うには、

 

「中学高校のときにめっちゃ聴いてたけど、あのときどんな気持ちで聴いてたのか思い出せない。」 

 

訪れたことのない歌舞伎町やJR新宿駅東口、吸ったことのないセブンスターに憧れる女子高生はもうここにはいない。東口に集合して歌舞伎町で朝まで飲んでセブンスターを吸って2ヶ月後に禁煙した経験のある自分はあの頃より確実に物事を知っているし、シド・ヴィシャスベンジーも鑑賞したし、感情のコントロールの方法も少し嗜んだりして、なにより椎名裕美子さんが椎名裕美子以外の何かに憑依して展開する椎名林檎という舞台装置に感心しながらフィクションとして楽しむリテラシーをあの頃より身につけつつある。

 

10代の輝きだけが本物じゃないし、仕事しながらだってロックも青春もパンクもあるし、感情のグラデーションはきめ細やかになったし、感受性だってアラサーを目前にしてまだまだすくすく育っている。

 

あの頃の気持ちを適切に保存できていたらそれはそれで一生の宝だっただろうけど、そんなもの常に持ち歩いている必要はない。どこかにアーカイブしておけばそれでいい。

 

今この瞬間の自分はいつでも捨てることができる、という希望だけ持ち歩いていたい。

 

 

友だちとランチを食べながら、そういえば前に好きだって言ってた子とどうなった?と尋ねられてどの子のことを指しているのかわからなかったとき、わたしはあんなに大好きでその瞬間世界のすべてだったあの子を3ヶ月も経たないうちに「そういえば2〜3回エロいことしたことのある人」フォルダにぶち込んでしまっていたことに気がついた。

 

うわー。わたしってば、あの人のこと、知らないうちに殺しちまったよ…という虚無感と罪悪感。と同時に、世界のすべてを切って捨ててやったぜという爽快感。

 

生きてる、と感じられる瞬間だ。

 

 

このブログは現パートナーとの諸々を忘れないためにはじめた、と自分では思っていたのだけれど、実はそうではないのかもしれない。どんどん積み重なっていつか捨てるのが怖くなりそうな膨大な時間を安心して忘れられるように書いているのかも。そう考えると自分がちょっと怖くなる。

 

君を不幸にできるのは宇宙でただ一人だけ

(スピッツ『8823』)

 

ではない。

 

 

 

 

 

 

 

たしかにあの時あの瞬間は、私を不幸にできるのは宇宙であなただけだったんだけどね。

8823

8823

 

 

外苑前 レストラン タニ

試験が終わったので打ち上げだ〜!やった〜!

豪勢にやりたいときはやっぱりフレンチ🇫🇷

 

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平日の早い時間帯ということもあって、貸切状態。

 

シャンパンでかんぱーい🥂

 

わくわくしながらアミューズを待ってると、

男性のソムリエさんが、

「寒いですか?」

 

あー…言われてみれば腕さすってた!

確かにちょっと寒いかも…。

よく見ていらっしゃる、、、

 

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桜海老のキッシュ

ほっくほく!

海老って濃厚な卵に合うんだよねぇ。

 

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パンに豚のリエットが付いてきた🐽お得感✨

ロブション・ラトリエでの喜悲劇を思い出すなぁ。。あの話いつになったら言語化できるんだろう。いつかしたい。

リエット、全然臭みがなかった。

バターと一緒にリエットを食べるのもよい。背徳感。

パンはあっつあつ!

 

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▷フォアグラのプリン仕立て

わたしはフォアグラの苦味と臭みが少し苦手なので、プリン仕立てにするくらいがちょうどいいかも。キャラメリゼのアクセントも◎

 

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▷鰻と豚肉のチョリソー

鰻と豚が合うなんて、、、外はパリパリ中はふわふわ、温度が良いです。ホックホクのうちに食べきる。

 

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▷短角牛のヒレのグリエ

フォンドボーであっさりと!あっさりな分お肉のジューシーさが存分に楽しめる…!

 

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▷柚子と甘夏のシャーベット

結構、おなかいっぱいだったので、あっさりめのデザートを選択。甘夏の苦味がクセになる…!

 

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ごちそうさまでした…!

 

フレンチのアットホームさと洗練されたお洒落さの良いところ取り!というかんじがしました。とっても美味しかったです。

なにより男性のソムリエさんが一歩先行く心地の良い空間を作ってくれています。大切な日も安心して任せられるお店だと感じました。

 

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帰りにはおなかいっぱいで残してしまっていたおいしいパンを包んでくれました!

翌日は幸せな朝食だったな〜。

 

もう少しおなかを空かせてまた来たいです。

 

レストラン タニ

食べログ レストラン タニ

 

なんでそんなていたらくだったかというと、おやつのこれのせい。

 

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見た目からして神々の食べ物感がすごい。ピエール・エルメ・パリ Aoyama (PIERRE HERME PARIS) - 表参道/ケーキ [食べログ]

 

 

 

エレガンスはいつかこちら側に歩いて来る『キャロル』トッド・ヘインズ監督

 

是枝監督にパルムドールのトロフィーを授ける女神・大大大大女優ケイト・ブランシェット様(カンヌ国際映画祭の審査員長)。世界に配信されたその写真の神々しさは、もはや宗教画だった。

 

https://news.biglobe.ne.jp/smart/amp/entertainment/0520/nsp_180520_5499929960.html

 

その彼女自身が主演をはった、とても美しい映画がある。2016年の『キャロル』。

 

あらすじは以下の通り。

1952年、ニューヨーク。高級百貨店でアルバイトをするテレーズは、クリスマスで賑わう売り場で、そのひとを見た。鮮やかな金髪。艶めいた赤い唇。真っ白な肌。ゆったりした毛皮のコート。そのひともすぐにテレーズを見た。彼女の名はキャロル。このうえなく美しいそのひとにテレーズは憧れた。しかし、美しさに隠された本当の姿を知ったとき、テレーズの憧れは思いもよらなかった感情へと変わってゆく......。キャロルを演じるのはケイト・ブランシェット、テレーズを演じるのはルーニー・マーラ。いま最も輝いているふたりの女優。ふたりの視線が交わる瞬間、忘れられない愛の名作が誕生した。

(映画『キャロル』公式サイトから引用)

 

 

キャロル(字幕版)
 

 

 

画面から溢れ出す美美美美美美美

この映画はすべての画面がとにかく美しい。すべてのショットがカラーコントロールされていて、絵画のようにデザインされている。

なかでもとっておきのシーンは、冴えない写真家志望としてくすぶるルーニー・マーラ演じるテレーズとケイト・ブランシェット様演じるキャロルとの一目惚れのシーン。一目惚れという現象の完璧な映像化。

 

このときのケイト・ブランシェット様の浮世離れした美しさをRHYMESTER宇多丸さんが「エレガンスが歩いている」と評していた。マイクロフォンNo.1、流石すぎる。ちなみにわたしの感想は、

「あ、エレガンスって歩くんだ。しかも、こっちに向かって。」

 

日常って、自分自身って、クソ。冴えない。地獄だ。

 

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↑『キャロル』を観ているわたしの部屋

 

日常は汚い。エレガンスの対義語=わたしの部屋。もちろん、自分の部屋でこそイデアを実現させようとがんばっている人もいると思うので、そういう人は、自分の日常にあるクソみたいな場所、仕事も物も片付かないデスク、死屍累々が横たわる歌舞伎町の三次会、会議が終わらない呪いにかかった会議室、永遠とも思われるトラブルシューティング、そういうものを想像してほしい。

 

そんなクソに囲まれた自分にまさか、エレガンスが微笑みかけてくる、なんて思ってない。思えるわけがない。エレガンスといえば、メトロポリタン美術館とかルーブル美術館とかカンヌ国際映画祭に泰然と佇み、そこから表情を変えることなく一歩も動かないイメージ。しかし、ごく稀にエレガンスはわたしたちに歩み寄る。そして、一目惚れという現象が発生する。あの憧れの彼がわたしを見ている?いやいやいやまさかね。まさか、まさか、ケイト・ブランシェット様がこのわたくしなんぞを見初めてくださっている? そんなずはない。食事に誘われた。きっと気まぐれだろう。お情けに違いない。手が触れた。気のせいかもしれない。部屋に呼ばれた。どうする?抱きしめるべきなのか?

 

エレガンスとわたしとの間になにかが成立した予感。世界のすべてが変わる。「ここではないどこか」への旅立ちが始まる。そんな人生の最も美しい瞬間を体現することができるのがケイト・ブランシェットという女優だ。凄い。凄すぎる。

 

さらにこの映画がすごいのは、冴えない自己評価に蝕まれていたテレーズに美を見出し、「ここではないどこか」に連れて行ってくれるかも、と夢見ていたのは、むしろケイト・ブランシェット様(キャロル)だったということがちゃんと明らかになってしまうところだ。エレガンスの象徴たるキャロルもまた、クソみたいな日常を、地獄を生きていたのだ。

そして、テレーズにはキャロルの期待に応える才能があった。彼女がキャロルから差し伸べられた手をとることができたのは、テレーズが「わたしの人生はこんなはずではない」と想い続ける人だから。想像力を羽ばたかせ、「いま・ここ・わたし」ではない人生を願って、彼女はチャンスをつかんだ。

 

エレガンスはいつかこちら側に歩いてくる。

 

 

 

 

原作小説の作者はなんと『太陽にいっぱい』(アラン・ドロン!歩くエレガンス!!)の原作者。当時、同性愛を描くことはタブー視されていたため別名義で出版し、大ヒットしたらしい。作者が名乗り出たのはなんと38年後。

 

キャロル (河出文庫)

キャロル (河出文庫)

 

 

 

 

存在が耐えられないほど軽い、12月24日。

わたしはクリスマスイブのデートを当日すっぽかされたことが2回ある。

 

それぞれ理由は、「レポートが終わらない。」と「課題が終わらない。」だった。

 

レポートも課題も随分前から締切というものが提示されている類のタスクであり、たとえタスクの見積もりが甘かったとしても12月24日、12月24日の夜の予定をわざわざ空けさせ機会を喪失させ独占した上で当日になってキャンセルする、だけでなく、「インフルエンザになった。」「親戚が倒れた。」「実家の犬が死んだ。」といったこの世に一定期間在り続けた社会的動物なら取り揃えているであろう数ある言い訳コレクションの中から「レポートが終わらない。」を待ち合わせ5時間前に選ぶセンスはどこから生まれるのか。

 

しかもこんな出来事が30年にも満たない人生で2回もこの身に起こるとは。

 

わたしが選ぶ相手を間違えている気もする。

 

彼らにとってわたしという存在は吹けば飛ぶほど軽かった。

 

だけでなく、彼らにとって彼ら自身の存在もまた耐えられないほど軽い。

 

 

少し前、わたしは小学二年生の男の子に英語と算数を教える家庭教師をしていた。

小学二年生が2時間机に座ってなければならならない。これはとても大変、というかほぼ不可能だ。まずはお互いに「よろしくお願いします。」と挨拶をしてみよう、というところから教えなければならなかった。

彼はとても賢かった。一ヶ月も経つと、わたしが家に来てからわーとかぎゃーとか一通り走り回った後で、照れながら「よろしくお願いします。」と言えるようになった。

 

「よろしくお願いします。」

 

しかし、少し経つとやはり2時間机に座るのは無理だよねって話になる。この年齢の人間の身体はひとところに止まるような仕組みになっていない。彼の中に、なにかしらの哲学というか、自分がここにいなければいけないことへの怒りや哀しみみたいなものが芽生え始めた。

なんでこんなことしなきゃいけないんだ?

 

彼はその怒りや哀しみをわたしにぶつけた。

ボイコットだ。

わたしのありとあらゆる言葉はすべて彼に無視された。

 

気持ちは大変よくわかるのだけど、こちらも仕事でクライアントである御両親の目もあるわけで、わたしは彼にお願いをしなければならなかった。

 

ねぇねぇ。わたしは今とっても悲しいよ。

〇〇くんに話を聞いてもらえなくて。

〇〇くんはどう?お母さんとかお父さんとかお友だちにお話聞いてもらえなかったら悲しくない?わたしは今、そのときの〇〇くんと同じくらい悲しい。

 

彼は自分の怒りや哀しみで手一杯で、自分の言動が教師に深刻な影響を与えうるということを知らない。こちらは本当に悲しいし、傷ついているのに、そんなことはお構いなしか、こちらを振り向かせる餌を撒いている程度の認識しかない。

 

彼は自分自身の価値を知らないから、自分で自分のことを簡単に貶める。相手を軽んじることは、自分の相手になんらか作用しうる主体としての地位を放棄することだということにまったく気づいていない。

 

そんなことはない。あなたはあなた自身が尊重しなければならないのだよ、と誰かが教えなければいけない。妙な使命感に燃えた。

 

2週間で、彼は机に30分間座るようになった。

 

 

わたしは現在ポリアモリーなので、時期によっては何人か複数の人と合意の上、関係を持つことがある。

しかし、合意を取ればオールオッケー酒池肉林の世界!???!!!かといえば当然そんな都合のいい世界はない。

複数の人と関係を持つことに合意したものの(このプロセスもまぁまぁ大変)、自分は彼女にとってのone of them=交換可能などうでもいい存在 なのだと勝手に自分の地位を貶めてしまう人が少なくない。

そんなことないよ、あなたはあの人とは違う、わたしにとって尊い、地球上でただ一人のあなたなのだと伝えても、彼は聞く耳を持たない。わたしの言葉は彼には通じない。そこにはもう、わたしがかつて惚れたはずの、生気に満ち満ちた彼はいない。

 

こうしたわたしの甲斐性なしはしっかりわたしに返ってくる。彼は自分で自分を軽んじた結果、わたしのことをぞんざいに扱うようになる。

 

 

モノアモリーだったらわたしがクリスマスイブにすっぽかされなくなるかといえばそうではない気がするし、単におまえの魅力不足と言われればそうでしょうねと認めざるをえないけど、たとえあなたにとってわたしが取るに足らない存在だったとしても、あなたがあなた自身を軽んじるのはやめてくれよ、と思う。わたしはあなたを一瞬でも世界のすべてだと信じたのに、信じるに値する人間だったのに、そんな人間が他ならぬ彼自身にぞんざいに扱われているのを見るのは悲しい。

 

せめて堂々としていてくれ。

 

 

 

 

 

 

 

レポートは終わらせろ。

 

 

 

 

いやー、でもさー、誰かにとってかけがえのない存在になるって重いよねー、だからといってさー、軽いのもねー、あーあー…ってなると読み返してまたあーあー…となる。そんな本。

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 

 

 

マーク・ウェブ監督『(500)日のサマー』サマーはビッチなのか問題

The following is a work fiction.

Any resemblance to the person dead or living is purely coincidecial.

(この物語はフィクションで、実在の人物との類似は完全に偶然である。)

 

Especially you Jenny Beckman.

(おまえのことだよ、ジェニー・ベックマン。)

 

 

Bitch.

(クソが。)

 

 

という

 

最低の字幕と共に始まる本作。

脚本家スコット・ノイスタッターの経験が元になったボーイ・ミーツ・ガール。

早々に傷口が生々しい。

 

(以下、若干ネタバレあります。)

 

あらずしはおもしろかったのでiTunes Storeの紹介文から引用。

恋を信じる男の子と信じない女の子のビターでスウィートな500日ストーリー。サマーに恋した、最低で最高の500日。建築家を夢見つつ、グリーティング会社で働くトムは、ある日、秘書として入社してきたサマーに一目惚れしてしまう。トムは運命の恋を信じる夢見る男の子、一方のサマーは真実の愛なんて信じない女の子だった…。好きな音楽をきっかけに意気投合し、いいムードになった二人。そんな中トムは、サマーに対して「彼氏はいるの?」と聞くと、サマーの答えはノーだった。恋愛と友情の間に果てしなく広がるグレーゾーン。人を好きになるってどうしてこんなに楽しくて切ないんだろう!誰もがまた恋をしたくなる、二人の(500)日がはじまる!

うわ〜、この2人上手くいかなそうだな〜、、という対比かーらーのー、

恋愛と友情の間に果てしなく広がるグレーゾーン。

このパンチライン。絶対的悲劇の予感。

このように、物語は最初からバッド・エンドであることが提示されている。こんなお洒落で可愛いパッケージのくせに。青い鳥だっているのに。

 

じゃぁ悲劇はなんで起こってしまったのか?という謎を主人公のトムの記憶を掘り起こして探っていくのがこの映画。つまり、ミステリーであり、サスペンスである。

 

そして、その謎を辿ると必ず机上にのぼるのが、

 

「サマー、ビッチ問題。」

 

しかし、この問題、引っかかると実は映画を全然楽しめなくなり、ただの胸糞トラウマ映画として記憶に残るだけになってしまうというトラップでもある。なので改めて考えたい。

 

サマーは、ビッチなのか?

 

冒頭の字幕にも出てくるが、ビッチ(Bitch)とは、wikiだと、

必ずしも性的に奔放な女性という意味合いは持たないが、性的にアクティブな女性は他の女性と交際している男性とも関係を持ったり、交際中の男性がいるにも関わらず他の男性にも(秘密裏に)交際するケースがあるため、浮気症の女(=性格の悪い女)という意味で性的に奔放な女性

に対する蔑称だそうだ。

 

たしかに、ヒロインのサマーちゃん、めっっっちゃ遣り手なのである。思わせぶりな目線、身体のラインが綺麗に見えるピタピタのブラウス(白)、何か言いたげな独特の間、黒髪パッツンの60年代風の髪形、コケティッシュとはこのこと。入社してすぐ主人公のトムにエレベーターで話しかけ、会社の懇親会で盛り上がり、翌日のコピールームでキス!!!!え!あ、まじかー、、キスねぇ、へぇええ、、、、え、あ、勤務中じゃや、いやぁ、キス…。

 

でもでもでも!

サマーちゃんはコピールームでのキスの後、IKEAのベッドの中でキスをしてから真剣な表情でトムに聞いていた。

私、誰かと真剣に付き合う気はないの。

それでもいい?

それに対して、トムは、サマーに振られたくがないために、微妙に言葉を飲み込みつつも、大丈夫。と答えた。

 

性愛の世界では、ルールはいつだって手作り。

 

ここでサマーとトムの間には「2人はお互いの所有物にはなりません。排他的な関係を結びません。」というお約束が成立してしまった。だからこそサマーは喜び、トムをそばに置き続けた。

これに対して、トムは、わざわざ指差し確認されたにもかかわらず、「普通、コピールームでキスしたってことは愛してるってことだよね?」「普通IKEAで手繋ぎデートしたってことは愛してるってことだよね?」「普通、シャワーセックスしたら愛してるってことだよね?」と手前味噌の普通を押しつけ、妄想を膨らませ、現実の彼女を無視して迫る。彼女は一度もトムに「愛してる。」とは言っていなかったのに。サマーからしたら、トム、めちゃくちゃ怖い。済んだ話を蒸し返し、彼女にとっての無理難題を言い、毎度同じ話でキレる。ナンシーにつきまとわれたシドの如く7回刺したくもなるだろう。

 

性愛の世界ではいつだってルールは手作りで、誰かを裁く神も国家も存在しない。サマーをビッチと裁くことができる者もいないはずだ。いやむしろそんな俺様ルールを振りかざす不逞な輩こそが敗者になるのが惚れた腫れたの世界だ。

 

映画の後半、スプリットスクリーンの右と左で幸福な妄想と容赦ない現実が同時進行する様子は秀逸。トムの妄想がサマーという現実の前に完膚なきまでに叩きのめされていく。

 

しかしこのように、トムの妄想は一つ一つ丁寧に潰され、しまいには立たなくなり、現実と向かい合わざるをえなることで、確かに彼は成功の端緒のようなものをつかみかける。この現実に立ち向かって欲しいものを手に入れようとするという姿勢こそ、トムがサマーから得たものであり、生涯の宝。永遠の輝き。

 

大丈夫。次の女、すっげー美人だから。

 

 

2人が観て別れてしまった縁起の悪い映画。

オマージュも度々。花嫁を連れ去るシーンが有名。

卒業 [Blu-ray]

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(500)日のサマーは現代版のアニーホールだ!と言われていたので元ネタ。同じく、なんで自意識の強い現代っ子が恋に破れてしまうのか解説してくれている映画。