はるちん

死ぬまでの暇つぶし。良い日の備忘録。twitter_@chuck_abril17

トッド・フィリップス監督『ジョーカー』他者なき他者と生きる

今年最も大きい一本になるであろう映画、『ジョーカー』を観てきた。今年のヴェネチア国際映画祭のグランプリを受賞し、例年の御多分にも漏れずアカデミー賞レースに絡んでくることは間違いない。だけでなくネット上・SNS上で賛否両論、非常に幅のある感想・考察が噴出している。

 

あらすじは公式HPから一部抜粋。

「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸に、大都会で大道芸人として生きるアーサー。しかし、コメディアンとして世界に笑顔を届けようとしていたはずのひとりの男は、やがて狂気あふれる悪へと変貌していく。

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※ここから先、なんとなくがんばってボカしてはいますが、一部重大なネタバレを含みます。未見の人は注意。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同情と共感、嫌悪と軽蔑の狭間

 

そうそう。このあらすじからまず観客が揺さぶられる要素が目白押しなのだ。主人公のアーサー(ホアキン・フェニックス)が語る「自分」とはまさにあらすじにある通り「母を献身的に介護し、自身も障碍を抱える、コメディアンを夢見る善良な市民」である。実際に彼の直面する困難や差別は同情せざるを得ない。

 

しかし、物語の冒頭から観客に彼の世界観について若干の違和感が与えられる。献身的に介護している母との関係はどこか冷めたような、うんざりとした雰囲気が漂う。彼が夢見るのは、母との平穏で豊かな日々やコメディアンとして成功する姿、というよりは権威や世間の人々から「善良な市民」として拍手喝采を浴びるシーンある。彼の職場の上司はやや高圧的ではあるし、世間の目は冷たいものの、同僚は心優しくもっと彼らを頼って心を開いても良いのでは?と思わせるが、彼は内に閉じこもり、怒りと不満を溜め込んでいる。

 

同僚やカウンセラーからの思いやりの一言や態度を向けられるとき、彼は必ず下を向いていて、どうやらその言葉は耳に届いていない。一方、ありそうもない隣人の美女からの好意や母の語る「金持ちの財閥の隠し子」という自身の出生の物語はあっさりと「信じる」。こちらとしては、いやいやすっげー可哀想だけど、なんで今そう考えた?????という共感と同情、嫌悪と軽蔑の間を反復横跳びさせられてしまう。

 

と、同時に、彼の思考を「わかるけど、わからない」の間でトレースさせられた観客は、はっきりと不穏な空気を感じとる。「これはヤバいかもしれない。」彼が膨らませる自画像と現実とのギャップは、社会との軋轢の絶えないかなり危険なものだとわたしたちは経験的に「知っている」。いつ爆発するかわからない爆弾を今か今かと待ち構えるサスペンスに誘われていく。

 

 

絶望の中盤

わたしたちは彼にかかわることができない

 

そうしたないまぜの、ぐちゃぐちゃとした感情のまま、映画は最初の重要な転機を迎える。ここでも、やってやったぞ!!の高揚感とえ?なんで????の混乱は解消されない。(1人目・2人目はまだしも、3人目の殺しは本当に下劣で吐き気がするほどだ。)美しい舞踏や妄想の中での彼女とのデートも、勝利に酔いしれているのか社会から完全に零れ落ちた哀しみなのか、どこからきたとも言い切れぬ場面が続く。

 

ただ、ここまで観客と主人公となんとか「かかわりあい」の余地を残してきた物語は、中盤以降、一気に転落する。彼が自身の生い立ちを知ると共に、観客もまた彼の「わからなさ」が生育歴からくる「どうしようもなさ」だと気づいてしまう。彼は彼の思考や行動、世界観に他者から介入される機会をあまりに奪われてきた。(あるいは、介入を許してしまえば、彼は生きていけなかった。)

 

彼をどうにかできるとすれば、福祉や社会のシステムなのかもしれないが、それすらわたしたちだって昨今「どうにかしたいが、どうにもしようがない」と無力感を抱きつつあることなのだ。

 

 

他者なき他者と生きる

 

 

彼の世界には他者はいない。それは、貴種流離譚的な妄想や隣人の美女とのデートだけでなく、殺人に至るプロセスからもわかる。彼は電車の中で女性を救おうとして殺したのではなく、自分が殴られたから殺した。父親と夢見た人物に母を馬鹿にされても殺さないが、自己を否定されたときには自殺の企図を翻して対象を殺す。自分を貶めた同僚は、相手の思いやりや解雇理由の妥当性など差し引くこともなく当然殺す。徹頭徹尾、利己的だ。そして、同僚やカウンセラーなど実際に彼とコミュニケートする人物の親切心は彼に届かず、権威や虐待を施した母のみが彼に影響を与えることができる。

 

しかし、同時に、そんな「他者なき世界」に生きるのは彼だけではない。彼を救世主に祭り上げる大衆もまた、見たいものだけを見、彼らがそうだと感じられる世界観だけを信じる。利己的なアーサーの殺しはすべて彼自身の個人的な理由に基づくもので、全然、金持ちを殺そうと思って殺したわけじゃなかったし、誰かのためになんて一ミリもなかったのに。アーサーが最後に獲得するのは、そういう「どうでもいい有象無象」とのつながりだ。

 

もしわたしたちが現実を翻ってそういう世界にまさに今生きていると感じられるなら、わたしたちは誰かにとってどういう存在なのだろうか。わたしが彼(ら)の隣にいたとして、それなりに親切にしたとしても、彼を止めることも安らぎになることもできないだろう。隣人にすら影響を与えることのできない存在なのだとしたら、わたしはなんのためにここに居るんだろうね。

 

 

 

そんなわたしに最後の追い打ちをかけるように、アーサーはラストシーンで、おまえなんて存在はさ、としっかり突き放す。

 

 

「アートに傷つけられる」ってこういうことなんでしょうね。

 

 

 

 

つらい。

 

 

 

 

✳︎

 

 

 

 

酒・ギャンブル・暴力にまみれた生活保護受給家庭出身の成り上がりのウチのパートナーは、「すごく彼に共感してしまうけど、全然違うなって思ったのは、俺はしんどいと思いながら階段を上るのが好きだし、あんなに軽快に階段を降りることはできないとこかな。」と言っていて印象的だった。階段の使い方、よかったよね。

 

 

 

 

✳︎

 

 

 

 

同じく2年前の金獅子賞作品『シェイプ・オブ・ウォーター』は「だからこそクソみたいな社会に中指立てて、たとえ水の中でも共に生きよう。」という話でさわやか〜だったけど、アーサーは小人症の同僚を見下していてつらみがあった。ただ、たった2年で前者の物語にリアリティを感じられなくなりつつある自分もいたりして。それもまたつらみがある。

 

 

 

山戸結希監督『玉城ティナは夢想する』玉城ティナとそれ以外

玉城ティナちゃんにしてください♪」の気持ちで玉城ティナちゃんを担当してる美容師さんに髪を切ってもらった。当然のように玉城ティナちゃんにはなれなかったけど、鏡に映ったわたしの頭は私史上一番小さく見えた。こんな平々凡々の一般市民にすら誠実な仕事をする、たしかな技術を持ったプロフェッショナルに髪を繕ってもらって、玉城ティナちゃんの煌めく美貌は保たれてるんだ、と思ったらなんだか泣けてきた。

 


玉城ティナを見るとき感じるのは、手に届きそうで届かないものへの嫉妬ではない。上を見上げすぎて首筋が痛くなるような羨望だ。それは絶望でもあると同時に希望でもある。わたしだって、玉城ティナくらい美しければ、何事もうまくいく人生を歩めたのではないか?わたしがうまくいっていないのは、わたしの顔が、スタイルが、玉城ティナではないからではないか?玉城ティナの容姿を持ったパラレルワールドで、わたしはすべてを手に入れることができる。

 


しかし、わずか15分足らずの映像にわたしは驚愕する。玉城ティナ玉城ティナとして装わないとき、玉城ティナならざる何者でもない少女と玉城ティナとのギャップには、平凡なわたしと平凡なわたしが社会性を身に纏おうと画策したその姿とのギャップとの相似を感じずにはいられないのだ。スケール感とレベル感の違いこそあれ、眼鏡をかけ唇の血色が失われ部屋着を着る「わたし」と、満を持して紅を差し軽やかにワンピースの裾をはためかせる「わたし」との間を永遠に反復横飛びし続けるわたしたち。

 


その2つの自画像の堪え難い落差を、玉城ティナの中にすら見出すとき、わたしたちはようやく彼女にも、自力ではどうにもならぬ理不尽に涙を流す夜があるだろうと想像が及ぶ。玉城ティナといえども、玉城ティナ玉城ティナならざる少女との間の暗くて深い溝にハマって抜け出せぬ日がある気がしてくる。玉城ティナが日本中の女の子の「かわいい」を背負うとき、玉城ティナの中の玉城ティナならざる黒子の格闘は、決して観客に映らない。その孤独な闘いは一体今まで誰が、なにが、支えてきたのだろう。

 


その闘いを可視化することこそ、山戸監督の特異性であり、功績である。山戸監督は玉城ティナ玉城ティナ以外の少女の孤独を孤立させることを許さない。世俗で分断された少女たちを観念の上だけでも結び止めようとする監督の並々ならぬ執念は、きっと新しい時代をひらくと信じている。

 

 

玉城ティナちゃんにしてください♪

今泉力哉監督『愛がなんだ』それは愛でもない、恋でもない、だからなんだ。

この映画の感想を書くにあたって、女が自身の経験(と思われるもの)を一ミリでも匂わせようものなら嘲笑を免れ得ないイマドキの空気こそが、この映画をホンモノにしている。いやいやアートってさ、抽象化された表現を技術的に操って誰かしらの体験とつながろうとする、そういうものなんじゃないですか、と言ってみたところで、つながったその先の物語の「正しさ」すら追求される今日この頃。

 

主人公のテルコの想いと言動のその先になにもないことなんて、20数年間生きて恋の真似事くらいすればみんなとっくに知っている。彼女の行動パターンを分析し、糾弾し、そこから抜け出すための方法論ならGoogleと恋愛コラムニストがいくらでも教えてくれる。自分を安く売るな、都合のいい女になるな、自己肯定感を上げろ。

 

たしかに人生には前に進まなければならないときがある。というか、大体においてそう。わたしたちはテルコのように男のせいで会社を辞めて昼から公園で金麦をあおるわけにはいかない。明日食うために仕事はあるし、子どもや夫や婚約者がいる。

 

色恋なんて自分の力じゃどうしようもないものに、かかずらっている時間はない時代だ。自分がコントロールできるものをできないものを分けて、できるものに注力するべき、それが効率的だよってどっかの自己啓発本も言ってた。

 

でも、テルコの言うとおり、わたしたちは社会を回すためだけに生きているわけではない。ぽっかり一人になる時間、暇と言われる隙間時間はふとしたときに誰にだっておとずれる。正しさも生きる意味も価値も存在しない無重力空間で、わたしたちはどこまでも自由。

 

テルコは色恋を相手に委ねるなんてこと、絶対にしない。なんともならんものを、なんとかしようとするエネルギーにあふれている。うどんを作ってあげれば、深夜にビールを買ってきたら、タンスの靴下をきっちり畳んでそろえれば、彼の好きな人と引き合わせてあげれば、彼はわたしから離れないはず。因果の鎖で延々と彼をつなぎとめる。相手にボールを投げて返ってくるのを待つ、なんて甘っちょろいことはしない。

 

対になるマモちゃんもまた、なんとかならんスミレさんをなんとかしようと必死だし、なんとかならんはずのテル子のテンションを見事にコントロールしてみせる。

 

彼らの関係性から小骨のように喉に引っかかる他者性は丹念に取り除かれている。互いが互いに自分にとって心地のいい面だけを見せるように、何度も何度も定位置を修正する。

 

マモちゃんのいう「なにも考えてなかった」の「なにも」=「自分のこと以外なにも」 なんだろう。それはやっぱり、愛でもないし、恋でもない。

 

この映画はそういうあり方がこの世に「たしかにある」ことを示してくれる。肯定も否定もせず、そこにあるということ。わたしたちの中にたしかにあった、しかし戻りたいわけではない"あの時間"が近くもなく遠くもなく、そこに存在する。

 

だからなんだ、と問われると困ってしまうのだけど、だからなんだと問われるのに疲れたわたしたちは、この映画を観て少し息をつける気がしてしまうのかもしれない。

 

 

 

 

 

スミレさんの元カレ「わたしが『おなかすいた』って言ったら、『俺は空いてない』っていうタイプ」の人から受けた古傷が疼き、あのシーンで無事心が死にました。

 

原作にもこの台詞あるのかな。

 

 

愛がなんだ (角川文庫)

愛がなんだ (角川文庫)

 

 

近くの本屋さん、品切れで買えなかった。

 

角田光代さんの本、小学生の頃よく読んでてなにも刺さってなかったんだけど、そりゃそうだよね。また読み直したいな。

大森靖子『VOID』空っぽな愛でいい、空っぽな愛がいい。

男社会の周縁で夜な夜な繰り広げられる海賊の宴、いわく女子会ですらゆきずりの愛は肩身が狭い。

 

この後どうすんの?また会うの??会わないの???てか付き合う前にセックスしたの????自分のことは大事にしなよ?????そんなことしてたら婚期遠ざかるよ??????

 

そもそも社会の中心になんていられないわたしたちだからこんなところに集まってるのに、だからこそなのか中心の端っこにくらいしがみついてないと、わたしたちに居場所なんてないんだよと急き立てられる。

 

女だてらにバリバリ働いてます、一昔前のジェンダー規範には縛られません!Yes, We are リベラル!!と叫んでるアラサー女のTwitterアカウントが軒並みそろってそこそこの歳で駆け込み婚活して、共働きに理解のある完璧な夫と結婚して、不倫とセフレにやたらと険も棘もある言葉を発してるのを眺めてたら、どうやら中心が変わっただけか、中心の端っこの端っこにすら自分の居場所はないのだと思い知った。

 

人生に生産性なんてない。ましてや生きてる意味なんて。そもそも生まれてきたくなかったのに。死ぬまでの時間をなんとかやり過ごして生き延びるためにすがった男とのセックスすら否定するなら、いっそおまえがわたしを殺してくれよ。

 

自分で稼いだ金で買ったシャネルのリップや自分でプロポーズして結婚した夫は死ぬまでの時間のなんの足しになるんだろうか。たぶんないよりはマシだけど。でももっとくだらないもので時間をやり過ごしたい。少しでも意味のありそうなものなんて、きっと後で復讐してくるから。借金の取り立てみたいに。ほら、もっと生産的で持続可能性あることに取り組んだらどうなの?それがあなたの生きる意味なんだから。

 

そんなことよりわたしを大丈夫にしてくれるのは高田馬場のクソオンボロアパートに転がり込んで君を太陽にして無理やり起きてはエロいことしてまた起きてコンビニで一番高いアイスでエロいことして…っていうゴミみたいな大学生活だし、待ち合わせのローソンで2つ買ったおにぎりだし、あと一歩を踏み止まった中央線だし、しょうがないファックの後始発を待ったJR新宿駅のプラットホームだ。

 

わたしはここに居て大丈夫、ってたまには夢見てみたいから、何もできない、忘れてもいい男と一夜を過ごしたかったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

この文章は大森靖子のVOIDという曲に触発されてチラシの裏に書きなぐった架空の独白です。筆者の実体験や実在の人物とは一切関係ありません。

 

 

以下の曲も引用しました。

エモが極になって爆発するプレイリスト。

わたしの生きる糧。点滴。

 

の子やの子のファンを救い出すためのど真ん中の歌詞がすごい。

 

「今日もかわいく生きててね」で毎回鼻の奥がツーンとして泣きそうになる。

 

ミッドナイト清純異性交遊 0:00頃〜

デートはやめよう 22:27頃〜

最高のライブなので後で全部観てください。

 

 

曲名になってる高円寺のhayatochiriって古着屋さんの向かいのライブハウスによく通ったな。

 

言わずと知れた名曲。見た目から「中央線が似合わない女」って言われてたけど、好きだったよ。中央線。

 

始発

始発

  • 女王蜂
  • ロック
  • ¥250

MVが見当たらなかった。なんらかのサブスクで頼む。

 

おまけ

 

大森靖子「新宿」夏の魔物 17:28頃〜

さっきのライブ動画ね。どうしても全部観て欲しい。

 

大森靖子「音楽は魔法ではない」夏の魔物 13:55頃〜

同じく。ここまで来れてしまったあなたはYouTubeに飽き足らないはず。一緒にライブに行こう。全国ツアーあるよ。

 

 

 

村上春樹『アンダーグラウンド』&『約束された場所で』新しい物語

職業作家・村上春樹のなりふり構わない姿がそこにはある。

 

アンダーグラウンド』と『約束された場所で』。この2作は対になっている。

 

アンダーグラウンド』は地下鉄サリン事件の被害者62人へのインタビュー、『約束された場所で』は元オウム真理教の信者へのインタビューから構成されている。もちろんインタビュアーは村上春樹本人。

 

どちらから読むべきかはわからない。わたしは『約束された場所」から読んだ。こちらの方が(物理的な意味で)薄かったので。文庫本で小指の先の爪くらいの厚さ。

 

ただ、そんな薄っぺらい覚悟で読み始めたわたしでも『約束された場所』で「あちら側」の世界を知った気になった後、『アンダーグラウンド』で展開される「こちら側」の世界のわからなさに叩きのめされるという経験は悪いものではなかった。

 

特に本作のユニークな点は『アンダーグラウンド』の村上春樹本人によるあとがき、「目じるしのない悪魔」にある。

 

村上春樹といえば知的でクールでハードボイルドな卓越して優れた世界的職業作家だ。事実、彼はこの2作を通して、要領よくライターとしての技術を発揮している。取材対象の生い立ち、仕事、家庭の様子、あの時のこと、そして今。証言の積み重ねだけでその人が目の前に立っているかのように人物を描き出し、あの時あの場所でなぜこの人はそのような行動をしたんだろう、なぜ今あの時のことをこのように記憶しているんだろう、ということをかなりの納得感を持って描き出すことに成功している。

 

しかし、そういうスマートなイメージとは少し違った姿がこの章にはある。

 

それらは既にあらゆる場面で、あらゆる言い方で、利用し尽くされた言葉だからだ。言い換えれば既に制度的になってしまった、手垢にまみれた言葉だからだ。このような制度の枠内にある言葉を使って、制度の枠内にある状況や、固定された情緒を揺さぶり崩していくことは不可能とまでは言わずとも、相当な困難を伴う作業であるように私には思えるのだ。(村上春樹アンダーグラウンド講談社文庫・739頁)

 

彼は地下鉄サリン事件のセンセーショナルな報道のあり方に代表されるような、正義と悪、正気と狂気といった二項対立にシステマチックに当てはめて処理していくというやり方そのものが、わたしたちの社会が「オウム的なもの」に対抗する策を持たなかった一因ではないかと仮説する。そのために、わたしたちは「新しい物語」を始めなければならない、と。

 

しかし、その「新しい物語」を描くことは容易ではない。普段の彼ならば小説的なモチーフを用いることによって鮮やかに表現するのだろうけど、今回はその手はほとんど使えない。「枠内の状況」を語るということは一回その枠の外に出て枠そのものを眺める、外から眺めた景色を語る、ということが必要なわけだけど、現実と強く紐付いた言葉で「制度の枠内の状況」を語るのは村上春樹ですらこんなにも難しいのかと驚いた。

 

この章はあまり読みやすいといえるものではないかもしれない。ちょっと不格好だし、(標準レベルで言えばかなりわかりやすいものの)普段の彼の作品に比べれば快楽的にスルスル読めるというわけではない。だけど、どうしても書きたいんだともがく筆者の強い気持ちが感じられる。そして、読み手はその心意気をわかりたいと思える。個人的には、わたしもまさにそういうことがしたいと思いながらブログを書いていた。もちろん技術的な程度は及ぶべくもないけれど。だから、少し泣いてしまった。

 

ただ、こんな風に自分の言いたいことやりたいことをプロに全力尽くされてしまったら、昔のわたしだったらその営み自体、やめていただろうな、と思う。(綿矢りさの『蹴りたい背中』を読んだときとか、大森靖子の渋谷クワトロでの弾き語りライブを観たときとかがそうだった。)

 

けど、村上春樹はそれすら許さない。彼は「オウム的なもの」への対抗策はわたしたち一人一人が自分の「物語」を探すことだと訴える。自我を他者に譲渡して別の「物語」の「影」を授かるのは実はとても危険なことだ。普段SNSで見たいものだけを見てイイネとRTを永遠と繰り返しているわたしたちには耳が痛い。

 

彼によればこの国の戦後は終わっていない。ずっと世界は地続きで複雑で矛盾だらけで、日頃雑事で頭がパンクしそうなわたしたちには受け止めるのがちょっとしんどい。でもそれを手放した先になにが待っているのかもしれないのか、実はわたしたちの社会は体験済みだった。

 

 

約束された場所で (underground2)

約束された場所で (underground2)

 

 

 

アンダーグラウンド (講談社文庫)

アンダーグラウンド (講談社文庫)

 

 

ちなみに、もしこのブログを読んで興味を持ってくれた人がいて、とりあえず『アンダーグラウンド』のあとがきだけ読もうかなという人がいたらそれはそれで有難いし止めないけど、600頁超2段組み62人の人生を読んだ前と後では全く重みの違う体験になるはず。是非是非是非、後から少しずつでもいいから一人一人のインタビューに最後まで目を通して。

 

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 

 

とはいえ、実はわたしは村上春樹のモチーフ(特に長編)はあまり得意じゃない。エッセイが好き。趣味のマラソンをテーマしながら、実はお仕事論。いわゆる「自己啓発」は苦手だけど、ちょっと元気になりたいんだよな〜という人に。

LA・LA・LANDを超えてゆけ。答えは月の裏側に。

わたしは情緒のない人間だ。

 

ちなみに、本ブログにも度々登場し、わたしとの不穏な軋轢を感じさせつつも腐れ縁で3年半続く彼も、思いやりはあるが情緒がない、というタイプの人間である。

 

最近、もう一人彼氏ができた。

 

こちらは思いやりというより情緒のあるタイプの人だ。

 

あるときその思いやりというより情緒のある彼と共通の友人と3人で性愛における情緒=「エモい」とはなにか、という問題提起を検討した。答えは満場一致で「やれたかも委員会」だった。

 

やれたかも、いや、やれなかったかも。不確定のパラレルワールドはわたしたちの想像力を刺激し、「いま・ここ・わたし」から解放し、胸をざわつかせる。

 

 

やれたかも委員会 1巻

やれたかも委員会 1巻

 

 



 

 

情緒はないが思いやりのある彼はLA・LA・LANDのラストシーンの走馬灯で大号泣していた。普段は仮定の話に潔癖なクセに。

 

「もし、あのとき、ああしていたら」

 

「もし、あのとき、こうだったら」

 

「もし、将来、こうなったら」

 

わたしたちは、ありもしない過去、ありえたかもしれない未来に想いを馳せ、涙を流し、ミアほどリアリストではなければセバスチャンのために現実世界から目を背け、人生を棒に振ることすらする、そういう生き物だ。それほどにノスタルジーの誘惑は強い。

 

 

ラ・ラ・ランド(字幕版)
 

 



 

 

さて、そうはいっても、わたしは情緒のないゲンキンな女なので「やれたかも」ばかりの人生なんてつまらない。実際に、ありつきたい。現在進行形のあの人にちゃっかりしっかりありつきつつ、エモい恋をしてみたい!

 

そこで、思いやりというより情緒のある彼にアンケートをしたところ、そういう場合、基本的には「焦らす」ということが必要らしい。

 

確かに、「焦らし」は、あるかもしれない未来への期待を膨らませる行為。その間に起こるであろう両者のせめぎ合いは、絶対にエモい。いやしかしそれにしても、寸止めで留めるなんて、脆弱な精神力しか持ち合わせていないわたしには到底無理。絶望的にその作戦は向いていない。そもそも「焦らし」ってレトロに見たらあるはずの未来を引き伸ばしているだけなので、それって目標にありついた途端、エモさはあっさり失われてしまう。

 

 

 

 

随分と昔のことを思い出した。

 

天才的な人がいて、わたしはその彼の感性のぶっ飛び具合に若干腰が引けていたのだけれど、ある日彼は携帯越しにクレイジーな提案をした。

曰く、

 

「テレパシーで会いに行く!」

 

「今からテレパシーで会いに行くね?本当だよ??」

 

「月の裏側を飛び越えてあなたの手に触っていい?なにか感じたらその感覚を教えてね?」

 

正直ドン引きだしなにを言ってるのかさっぱりわからなかったが、オカルトとかスピリチュアルとか半信半疑とかまったく信じられないとか真実とか嘘とかそんなことは実はどうでもよく、もし相手に少しでも乗り気と遊び心があれば、このチャンスはきっと見過ごされない。その人はまんまとあなたに触れられ触れて戯れる夢を見る。月越しに触れた手は、下界のあの手を握るのをずっと簡単にしてくれるはず。当時、わたしがその夢を見たかどうかは秘密。

 

 

 

 

お試しあれ。

 

 

この作戦、キャラ作りのハードルが高いのが難点なんだけど、情緒も思いやりも狂気も持ち合わせている自信のある人にはオススメ。

 

 

 

 

ここ数日、月が、ぞっとするくらい綺麗だ。

 

茶川龍之介がこちらを見ている

最近はよく近所のデニーズで作業をする。

 

何をするわけでもなく携帯をいじっていることもあるし、勉強したり、バイト先の予備校の生徒の答案にツッコミを入れたり、ドリンクバーで提供される何種類ものカルピスを抱えて(幸せ)、ちまちまちまちま5〜6時間すごす。

 

そんなに長時間居座ると隣の席の人はどんどん変わる。段々、自分がこの店の主になったような気分になる。根拠薄弱すぎる優越感。つーか迷惑。ちょっと後ろめたいから、こまめにごはんやデザートを注文する。ドリンクバーは必須。

 

深夜0時頃、隣にカップルが座った。男性は30代半ば、女性は20代前半くらい。

女性はよく喋る人だった。声色と話し方がタレントの鈴木奈々さんにそっくりだ。とりとめもなく、しかし、止まることなく、仕事の愚痴やなになにちゃんが妊娠したとか、子どもって欲しい?子育て大変そう〜とか、彼のむやむやとした返答すら待つことなく畳み掛けている。

 

わたしは2人の会話に耳をそばだてつつ、一人、下を向いて黙々と愛想のない法律の問題集にマルバツをつける。

 

ふとした流れで、2人の話題は子どもの頃に読んだ文学の話になった。(以下、鈴木奈々さんの声色で脳内再生。)

 

「わたしねー!むかしー、芥川龍之介って好きだったの!」

「え?へー。おまえ、芥川龍之介とか読むんd…」

「うん!あれはねー!話がわかりやすい!蜘蛛の糸たどってってー、スルスルスルーとか!ね!あのー、えーっと、あれ誰だっけー?!あれあれ!川端康成とかはつまんなかった!」

「あー、難しいもn…」

「でさー!わたし、芥川龍之介って、ずーっと、茶川龍之介だと思ってて!爆」

 

 

 

 

 

 

 

茶川龍之介

 

 

 

 

まじか。

 

 

 

わたしの大好きな映画に、マーティン・スコセッシ監督の「ウルフ・オブ・ウォール・ストリート」という作品がある。

 

 

 

 

レオナルド・デカプリオ演じるジョーダンが、ウォール街ですらない郊外でウォール街にあるっぽい立派な名前の会社を設立し、素人にクズ株をほぼ詐欺の手口で売りつけ儲けまくって貯金ゼロから年収49億ドルまで上り詰めた挙句、酒!女!ドラッグ!に明け暮れるのだが…というストーリー。

 

3時間という長尺ながら、キレのあるカメラワークと音楽づかい、レオ様渾身のクズキャラ演技で観客を飽きさせない。

 

観客はレオ様演じるジョーダンとその取り巻きのクズっぷり、どうしようもなさを笑い、嘲り、あー、自分はこんな人生じゃなくてぬくぬくした優しい世界に生きててよかったー、と安堵する、はずだった。

 

が、物語の後半そしてラストシーン、わたしたちは「お前の人生、そんなんでよかったの?」と突きつけられる。

 

「お前らは俺たちのこと笑ってるけど、お前らの人生はどうなの?」

 

 

 

鈴木奈々さん風の茶川龍之介さん(仮)はタピオカ片手に、その彼氏さんはドリンクバー片手に(タピオカはドリンクバーに入っていない。)、まだとりとめのない会話を続けている。時刻は午前0時を少し回ったところ。

 

「てかさ、なんでこんな時間にこんな混んでんだr…」

「あー、それはねー、ここはね、まず朝の10時くらいまでは隣のホテルの朝食券持った人が来んの、サラリーマンとか、でー、10時からは近所のおばあちゃんたちのお喋り場になんの、それがー、夜の7時くらいまで。でー、夜の7時から夜中とかは、この辺ね、〇〇大学が近いからー、すごいなんかガリガリ勉強してる若い人がいっぱい来るんだよねー!」

 

 

 

 

 

え?

 

 

 

 

 

お、おれ????

 

 

 

わたしじゃん!

なんかすごいガリガリ勉強してる〇〇大学生!

 

 

 

 

 

見られてる!!

しかも、めっちゃ冷静に俯瞰された!!!!!!

 

 

 

 

 

 

芥川龍之介を茶川龍之介だと思っていたという彼女のこと、正直に言えばちょっと馬鹿にしていた、というか、自分が心理的に有利な立場にいると思っていた。2人の会話に聞き耳立てていたのはこっち(のつもり)だったし。

 

見ている、と思っていた相手に、実はしっかり見つめ返されていたということがわかったとき、なぜかドキッとしてしまう。動揺する。改めて相手もわたしと同じ「目」を持った人間だと認識する。世界がバランスを取り戻す。なんでそんな当たり前のこと、簡単に忘れてしまえるんだろう。

 

ドキドキしながら胸をなでおろした。