はるちん

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トッド・フィリップス監督『ジョーカー』他者なき他者と生きる

今年最も大きい一本になるであろう映画、『ジョーカー』を観てきた。今年のヴェネチア国際映画祭のグランプリを受賞し、例年の御多分にも漏れずアカデミー賞レースに絡んでくることは間違いない。だけでなくネット上・SNS上で賛否両論、非常に幅のある感想・考察が噴出している。

 

あらすじは公式HPから一部抜粋。

「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸に、大都会で大道芸人として生きるアーサー。しかし、コメディアンとして世界に笑顔を届けようとしていたはずのひとりの男は、やがて狂気あふれる悪へと変貌していく。

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※ここから先、なんとなくがんばってボカしてはいますが、一部重大なネタバレを含みます。未見の人は注意。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同情と共感、嫌悪と軽蔑の狭間

 

そうそう。このあらすじからまず観客が揺さぶられる要素が目白押しなのだ。主人公のアーサー(ホアキン・フェニックス)が語る「自分」とはまさにあらすじにある通り「母を献身的に介護し、自身も障碍を抱える、コメディアンを夢見る善良な市民」である。実際に彼の直面する困難や差別は同情せざるを得ない。

 

しかし、物語の冒頭から観客に彼の世界観について若干の違和感が与えられる。献身的に介護している母との関係はどこか冷めたような、うんざりとした雰囲気が漂う。彼が夢見るのは、母との平穏で豊かな日々やコメディアンとして成功する姿、というよりは権威や世間の人々から「善良な市民」として拍手喝采を浴びるシーンある。彼の職場の上司はやや高圧的ではあるし、世間の目は冷たいものの、同僚は心優しくもっと彼らを頼って心を開いても良いのでは?と思わせるが、彼は内に閉じこもり、怒りと不満を溜め込んでいる。

 

同僚やカウンセラーからの思いやりの一言や態度を向けられるとき、彼は必ず下を向いていて、どうやらその言葉は耳に届いていない。一方、ありそうもない隣人の美女からの好意や母の語る「金持ちの財閥の隠し子」という自身の出生の物語はあっさりと「信じる」。こちらとしては、いやいやすっげー可哀想だけど、なんで今そう考えた?????という共感と同情、嫌悪と軽蔑の間を反復横跳びさせられてしまう。

 

と、同時に、彼の思考を「わかるけど、わからない」の間でトレースさせられた観客は、はっきりと不穏な空気を感じとる。「これはヤバいかもしれない。」彼が膨らませる自画像と現実とのギャップは、社会との軋轢の絶えないかなり危険なものだとわたしたちは経験的に「知っている」。いつ爆発するかわからない爆弾を今か今かと待ち構えるサスペンスに誘われていく。

 

 

絶望の中盤

わたしたちは彼にかかわることができない

 

そうしたないまぜの、ぐちゃぐちゃとした感情のまま、映画は最初の重要な転機を迎える。ここでも、やってやったぞ!!の高揚感とえ?なんで????の混乱は解消されない。(1人目・2人目はまだしも、3人目の殺しは本当に下劣で吐き気がするほどだ。)美しい舞踏や妄想の中での彼女とのデートも、勝利に酔いしれているのか社会から完全に零れ落ちた哀しみなのか、どこからきたとも言い切れぬ場面が続く。

 

ただ、ここまで観客と主人公となんとか「かかわりあい」の余地を残してきた物語は、中盤以降、一気に転落する。彼が自身の生い立ちを知ると共に、観客もまた彼の「わからなさ」が生育歴からくる「どうしようもなさ」だと気づいてしまう。彼は彼の思考や行動、世界観に他者から介入される機会をあまりに奪われてきた。(あるいは、介入を許してしまえば、彼は生きていけなかった。)

 

彼をどうにかできるとすれば、福祉や社会のシステムなのかもしれないが、それすらわたしたちだって昨今「どうにかしたいが、どうにもしようがない」と無力感を抱きつつあることなのだ。

 

 

他者なき他者と生きる

 

 

彼の世界には他者はいない。それは、貴種流離譚的な妄想や隣人の美女とのデートだけでなく、殺人に至るプロセスからもわかる。彼は電車の中で女性を救おうとして殺したのではなく、自分が殴られたから殺した。父親と夢見た人物に母を馬鹿にされても殺さないが、自己を否定されたときには自殺の企図を翻して対象を殺す。自分を貶めた同僚は、相手の思いやりや解雇理由の妥当性など差し引くこともなく当然殺す。徹頭徹尾、利己的だ。そして、同僚やカウンセラーなど実際に彼とコミュニケートする人物の親切心は彼に届かず、権威や虐待を施した母のみが彼に影響を与えることができる。

 

しかし、同時に、そんな「他者なき世界」に生きるのは彼だけではない。彼を救世主に祭り上げる大衆もまた、見たいものだけを見、彼らがそうだと感じられる世界観だけを信じる。利己的なアーサーの殺しはすべて彼自身の個人的な理由に基づくもので、全然、金持ちを殺そうと思って殺したわけじゃなかったし、誰かのためになんて一ミリもなかったのに。アーサーが最後に獲得するのは、そういう「どうでもいい有象無象」とのつながりだ。

 

もしわたしたちが現実を翻ってそういう世界にまさに今生きていると感じられるなら、わたしたちは誰かにとってどういう存在なのだろうか。わたしが彼(ら)の隣にいたとして、それなりに親切にしたとしても、彼を止めることも安らぎになることもできないだろう。隣人にすら影響を与えることのできない存在なのだとしたら、わたしはなんのためにここに居るんだろうね。

 

 

 

そんなわたしに最後の追い打ちをかけるように、アーサーはラストシーンで、おまえなんて存在はさ、としっかり突き放す。

 

 

「アートに傷つけられる」ってこういうことなんでしょうね。

 

 

 

 

つらい。

 

 

 

 

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酒・ギャンブル・暴力にまみれた生活保護受給家庭出身の成り上がりのウチのパートナーは、「すごく彼に共感してしまうけど、全然違うなって思ったのは、俺はしんどいと思いながら階段を上るのが好きだし、あんなに軽快に階段を降りることはできないとこかな。」と言っていて印象的だった。階段の使い方、よかったよね。

 

 

 

 

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同じく2年前の金獅子賞作品『シェイプ・オブ・ウォーター』は「だからこそクソみたいな社会に中指立てて、たとえ水の中でも共に生きよう。」という話でさわやか〜だったけど、アーサーは小人症の同僚を見下していてつらみがあった。ただ、たった2年で前者の物語にリアリティを感じられなくなりつつある自分もいたりして。それもまたつらみがある。