はるちん

死ぬまでの暇つぶし。良い日の備忘録。twitter_@chuck_abril17

山戸結希監督『玉城ティナは夢想する』玉城ティナとそれ以外

玉城ティナちゃんにしてください♪」の気持ちで玉城ティナちゃんを担当してる美容師さんに髪を切ってもらった。当然のように玉城ティナちゃんにはなれなかったけど、鏡に映ったわたしの頭は私史上一番小さく見えた。こんな平々凡々の一般市民にすら誠実な仕事をする、たしかな技術を持ったプロフェッショナルに髪を繕ってもらって、玉城ティナちゃんの煌めく美貌は保たれてるんだ、と思ったらなんだか泣けてきた。

 


玉城ティナを見るとき感じるのは、手に届きそうで届かないものへの嫉妬ではない。上を見上げすぎて首筋が痛くなるような羨望だ。それは絶望でもあると同時に希望でもある。わたしだって、玉城ティナくらい美しければ、何事もうまくいく人生を歩めたのではないか?わたしがうまくいっていないのは、わたしの顔が、スタイルが、玉城ティナではないからではないか?玉城ティナの容姿を持ったパラレルワールドで、わたしはすべてを手に入れることができる。

 


しかし、わずか15分足らずの映像にわたしは驚愕する。玉城ティナ玉城ティナとして装わないとき、玉城ティナならざる何者でもない少女と玉城ティナとのギャップには、平凡なわたしと平凡なわたしが社会性を身に纏おうと画策したその姿とのギャップとの相似を感じずにはいられないのだ。スケール感とレベル感の違いこそあれ、眼鏡をかけ唇の血色が失われ部屋着を着る「わたし」と、満を持して紅を差し軽やかにワンピースの裾をはためかせる「わたし」との間を永遠に反復横飛びし続けるわたしたち。

 


その2つの自画像の堪え難い落差を、玉城ティナの中にすら見出すとき、わたしたちはようやく彼女にも、自力ではどうにもならぬ理不尽に涙を流す夜があるだろうと想像が及ぶ。玉城ティナといえども、玉城ティナ玉城ティナならざる少女との間の暗くて深い溝にハマって抜け出せぬ日がある気がしてくる。玉城ティナが日本中の女の子の「かわいい」を背負うとき、玉城ティナの中の玉城ティナならざる黒子の格闘は、決して観客に映らない。その孤独な闘いは一体今まで誰が、なにが、支えてきたのだろう。

 


その闘いを可視化することこそ、山戸監督の特異性であり、功績である。山戸監督は玉城ティナ玉城ティナ以外の少女の孤独を孤立させることを許さない。世俗で分断された少女たちを観念の上だけでも結び止めようとする監督の並々ならぬ執念は、きっと新しい時代をひらくと信じている。

 

 

玉城ティナちゃんにしてください♪