はるちん

死ぬまでの暇つぶし。良い日の備忘録。twitter_@chuck_abril17

今泉力哉監督『愛がなんだ』それは愛でもない、恋でもない、だからなんだ。

この映画の感想を書くにあたって、女が自身の経験(と思われるもの)を一ミリでも匂わせようものなら嘲笑を免れ得ないイマドキの空気こそが、この映画をホンモノにしている。いやいやアートってさ、抽象化された表現を技術的に操って誰かしらの体験とつながろうとする、そういうものなんじゃないですか、と言ってみたところで、つながったその先の物語の「正しさ」すら追求される今日この頃。

 

主人公のテルコの想いと言動のその先になにもないことなんて、20数年間生きて恋の真似事くらいすればみんなとっくに知っている。彼女の行動パターンを分析し、糾弾し、そこから抜け出すための方法論ならGoogleと恋愛コラムニストがいくらでも教えてくれる。自分を安く売るな、都合のいい女になるな、自己肯定感を上げろ。

 

たしかに人生には前に進まなければならないときがある。というか、大体においてそう。わたしたちはテルコのように男のせいで会社を辞めて昼から公園で金麦をあおるわけにはいかない。明日食うために仕事はあるし、子どもや夫や婚約者がいる。

 

色恋なんて自分の力じゃどうしようもないものに、かかずらっている時間はない時代だ。自分がコントロールできるものをできないものを分けて、できるものに注力するべき、それが効率的だよってどっかの自己啓発本も言ってた。

 

でも、テルコの言うとおり、わたしたちは社会を回すためだけに生きているわけではない。ぽっかり一人になる時間、暇と言われる隙間時間はふとしたときに誰にだっておとずれる。正しさも生きる意味も価値も存在しない無重力空間で、わたしたちはどこまでも自由。

 

テルコは色恋を相手に委ねるなんてこと、絶対にしない。なんともならんものを、なんとかしようとするエネルギーにあふれている。うどんを作ってあげれば、深夜にビールを買ってきたら、タンスの靴下をきっちり畳んでそろえれば、彼の好きな人と引き合わせてあげれば、彼はわたしから離れないはず。因果の鎖で延々と彼をつなぎとめる。相手にボールを投げて返ってくるのを待つ、なんて甘っちょろいことはしない。

 

対になるマモちゃんもまた、なんとかならんスミレさんをなんとかしようと必死だし、なんとかならんはずのテル子のテンションを見事にコントロールしてみせる。

 

彼らの関係性から小骨のように喉に引っかかる他者性は丹念に取り除かれている。互いが互いに自分にとって心地のいい面だけを見せるように、何度も何度も定位置を修正する。

 

マモちゃんのいう「なにも考えてなかった」の「なにも」=「自分のこと以外なにも」 なんだろう。それはやっぱり、愛でもないし、恋でもない。

 

この映画はそういうあり方がこの世に「たしかにある」ことを示してくれる。肯定も否定もせず、そこにあるということ。わたしたちの中にたしかにあった、しかし戻りたいわけではない"あの時間"が近くもなく遠くもなく、そこに存在する。

 

だからなんだ、と問われると困ってしまうのだけど、だからなんだと問われるのに疲れたわたしたちは、この映画を観て少し息をつける気がしてしまうのかもしれない。

 

 

 

 

 

スミレさんの元カレ「わたしが『おなかすいた』って言ったら、『俺は空いてない』っていうタイプ」の人から受けた古傷が疼き、あのシーンで無事心が死にました。

 

原作にもこの台詞あるのかな。

 

 

愛がなんだ (角川文庫)

愛がなんだ (角川文庫)

 

 

近くの本屋さん、品切れで買えなかった。

 

角田光代さんの本、小学生の頃よく読んでてなにも刺さってなかったんだけど、そりゃそうだよね。また読み直したいな。