LA・LA・LANDを超えてゆけ。答えは月の裏側に。
わたしは情緒のない人間だ。
ちなみに、本ブログにも度々登場し、わたしとの不穏な軋轢を感じさせつつも腐れ縁で3年半続く彼も、思いやりはあるが情緒がない、というタイプの人間である。
最近、もう一人彼氏ができた。
こちらは思いやりというより情緒のあるタイプの人だ。
あるときその思いやりというより情緒のある彼と共通の友人と3人で性愛における情緒=「エモい」とはなにか、という問題提起を検討した。答えは満場一致で「やれたかも委員会」だった。
やれたかも、いや、やれなかったかも。不確定のパラレルワールドはわたしたちの想像力を刺激し、「いま・ここ・わたし」から解放し、胸をざわつかせる。
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情緒はないが思いやりのある彼はLA・LA・LANDのラストシーンの走馬灯で大号泣していた。普段は仮定の話に潔癖なクセに。
「もし、あのとき、ああしていたら」
「もし、あのとき、こうだったら」
「もし、将来、こうなったら」
わたしたちは、ありもしない過去、ありえたかもしれない未来に想いを馳せ、涙を流し、ミアほどリアリストではなければセバスチャンのために現実世界から目を背け、人生を棒に振ることすらする、そういう生き物だ。それほどにノスタルジーの誘惑は強い。
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さて、そうはいっても、わたしは情緒のないゲンキンな女なので「やれたかも」ばかりの人生なんてつまらない。実際に、ありつきたい。現在進行形のあの人にちゃっかりしっかりありつきつつ、エモい恋をしてみたい!
そこで、思いやりというより情緒のある彼にアンケートをしたところ、そういう場合、基本的には「焦らす」ということが必要らしい。
確かに、「焦らし」は、あるかもしれない未来への期待を膨らませる行為。その間に起こるであろう両者のせめぎ合いは、絶対にエモい。いやしかしそれにしても、寸止めで留めるなんて、脆弱な精神力しか持ち合わせていないわたしには到底無理。絶望的にその作戦は向いていない。そもそも「焦らし」ってレトロに見たらあるはずの未来を引き伸ばしているだけなので、それって目標にありついた途端、エモさはあっさり失われてしまう。
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随分と昔のことを思い出した。
天才的な人がいて、わたしはその彼の感性のぶっ飛び具合に若干腰が引けていたのだけれど、ある日彼は携帯越しにクレイジーな提案をした。
曰く、
「テレパシーで会いに行く!」
「今からテレパシーで会いに行くね?本当だよ??」
「月の裏側を飛び越えてあなたの手に触っていい?なにか感じたらその感覚を教えてね?」
正直ドン引きだしなにを言ってるのかさっぱりわからなかったが、オカルトとかスピリチュアルとか半信半疑とかまったく信じられないとか真実とか嘘とかそんなことは実はどうでもよく、もし相手に少しでも乗り気と遊び心があれば、このチャンスはきっと見過ごされない。その人はまんまとあなたに触れられ触れて戯れる夢を見る。月越しに触れた手は、下界のあの手を握るのをずっと簡単にしてくれるはず。当時、わたしがその夢を見たかどうかは秘密。
お試しあれ。
この作戦、キャラ作りのハードルが高いのが難点なんだけど、情緒も思いやりも狂気も持ち合わせている自信のある人にはオススメ。
ここ数日、月が、ぞっとするくらい綺麗だ。