私を不幸にできるのは宇宙であなただけ、ではない。
マツコデラックスさんが、以前テレビの中で、女の人は初体験とかどうでもいいし、昔セックスした相手なんて覚えちゃいない、というようなことを言っていた。
いやいや流石にそんなことなくないですか。そういうことをした相手自体忘れてしまうなんてことありえないでしょ。と20代前半までは思っていた。のだけれど、これが5年も経つと、あれ?あの人そのメンバーに入ってたっけ?ということがしばしば起こる。そういうことをむしろ友人やパートナーに指摘されることがある。いやおまえその人とあったじゃん。忘れたの?いやー…そう…だったっけー…言われてみれ…ば…(モゴモゴモゴ)
念の為断っておくと、わたしの経験人数が3桁とか何十人とかそういう意味で忘れているわけではない。お陰様で20代後半の女体が不自由しない程度の、少なくとも一般的に全員名前を空で言うのに苦労しないはずと思われる人としか関わりはない。
それでも忘れる。
存在することは記憶されることだから、忘れられるということはわたしにとってはその人の死を意味する。
悲しい。
でも、同時に、忘れることは快楽でもある。
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先日、椎名林檎さんがデビュー20周年を記念して全楽曲をサブスクリプションサービスに解禁した。
もれなくわたしも無罪モラトリアムからアダムとイヴの林檎まで全アルバムダウンロードして聴きまくりブチ上がっているわけだけど、同じように聴き返しまくってはブチ上がっているという後輩の女の子が言うには、
「中学高校のときにめっちゃ聴いてたけど、あのときどんな気持ちで聴いてたのか思い出せない。」
訪れたことのない歌舞伎町やJR新宿駅東口、吸ったことのないセブンスターに憧れる女子高生はもうここにはいない。東口に集合して歌舞伎町で朝まで飲んでセブンスターを吸って2ヶ月後に禁煙した経験のある自分はあの頃より確実に物事を知っているし、シド・ヴィシャスもベンジーも鑑賞したし、感情のコントロールの方法も少し嗜んだりして、なにより椎名裕美子さんが椎名裕美子以外の何かに憑依して展開する椎名林檎という舞台装置に感心しながらフィクションとして楽しむリテラシーをあの頃より身につけつつある。
10代の輝きだけが本物じゃないし、仕事しながらだってロックも青春もパンクもあるし、感情のグラデーションはきめ細やかになったし、感受性だってアラサーを目前にしてまだまだすくすく育っている。
あの頃の気持ちを適切に保存できていたらそれはそれで一生の宝だっただろうけど、そんなもの常に持ち歩いている必要はない。どこかにアーカイブしておけばそれでいい。
今この瞬間の自分はいつでも捨てることができる、という希望だけ持ち歩いていたい。
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友だちとランチを食べながら、そういえば前に好きだって言ってた子とどうなった?と尋ねられてどの子のことを指しているのかわからなかったとき、わたしはあんなに大好きでその瞬間世界のすべてだったあの子を3ヶ月も経たないうちに「そういえば2〜3回エロいことしたことのある人」フォルダにぶち込んでしまっていたことに気がついた。
うわー。わたしってば、あの人のこと、知らないうちに殺しちまったよ…という虚無感と罪悪感。と同時に、世界のすべてを切って捨ててやったぜという爽快感。
生きてる、と感じられる瞬間だ。
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このブログは現パートナーとの諸々を忘れないためにはじめた、と自分では思っていたのだけれど、実はそうではないのかもしれない。どんどん積み重なっていつか捨てるのが怖くなりそうな膨大な時間を安心して忘れられるように書いているのかも。そう考えると自分がちょっと怖くなる。
君を不幸にできるのは宇宙でただ一人だけ
(スピッツ『8823』)
ではない。
たしかにあの時あの瞬間は、私を不幸にできるのは宇宙であなただけだったんだけどね。